ヒロテックは、1932年2月創設の鵜野製作所を原点としたものづくり企業です。戦争、原子爆弾投下を乗り越え、自動車産業の発展とともに大きく成長。今や世界の自動車メーカーに自動車ドアを供給するグローバル企業までに発展しています。ここではヒロテックの歴史について紹介します。
HIROTEC Life line Chart
第二次世界大戦前から戦中まで創業者鵜野徳夫の幼少期から鵜野製作所を起こし様々な製品を世に送り出し発展した。
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創業者 鵜野徳夫
山県郡筒賀村(現安芸太田町)で生まれ育った。13歳のとき澄合尋常高等小学校を中退し都会へのあこがれから広島市内に出てきた。幼い頃から機械いじりが好きだったので鉄工所に入所した。きびしい丁稚奉公だったが腕を磨いた。心臓が右にあるという体質のため徴兵検査で不合格となった。兵役に就かないことになり自分の事業を起こすことにした。昭和7 年 21 歳「鵜野製作所」の設立である。
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初めての自社製品
創業当初、消火器の口金とバルブの仕上加工があった。完成品は通常の消火器であったが「何か新しい自家製品を作れないものか」と考えた。電気や油など特殊火災に有効な四塩化炭素を消火剤とする消火器製作をおもいつく。当時この種の消火器はドイツからの輸入品が中心で国内ではほとんどつくられていなかった。化学薬品店と協力して「アットー消火器」を開発、熊平商会を通して販売した。他メーカーより品質、外観もよく価格も適性であったため予想以上の売れ行きであった。
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鋼製家具への道筋
消火器の製造で板金加工の可能性を広がりを知った。大学の木製棚を鉄製に切り替えるという話を聞いて受注。図書館で鉄製棚を観察して参考にした。スポット溶接機を導入、切断機はなかったので材料は寸切りしてもらって購入した。手動折り曲げ機を自作して曲げ加工した後の鋼製家具の製作につながった。
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競争力強化の設備投資
「これからは金属製の家具、調度品に替わっていく」と読み鋼鉄家具専門工場として拡大した。たいへん高価だったが当時日本で2台目の3メートルフォールディングプレスを導入した。鋼鉄製家具のメーカーは複数あったが最新鋭の設備をそろえた競合メーカーを参考に鵜野製作所も設備を導入した。カタログを製作し販売促進につとめた。
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戦艦大和の調度品
戦時体制に入り国家総動員法により民間向け製品が作れなくなった。そこで呉工廠に出入りするようになる。戦艦大和の調度品を受注。ロッカーや机など鉄製品でありながら木目塗りが要求されていた。4名が工廠に入って塗装の技術を習い自社に戻って製品に塗装した。一番大きな仕事は航空士用のベッドで5台一組でエレベーターになっておりパイロットがボタン1つで上甲板に上がれる仕組みになっていた。
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家具から兵器製造へ
戦艦大和の備品製作で技術水準の高さを認められ工廠指定工場となり爆弾を受注することになった。爆弾は弾頭の鋳造品だけ支給を受け他は素材から全行程を加工し塗装までした完成品を納品していた。疎開のため舟入から五日市に工場移転を命ぜられた。移転には大金が必要で金策に奔走した。他社製造の爆弾の中に不発弾があり同じ爆弾を造る鵜野製作所も生産中止を命ぜられた。生産中止で資金繰りが困難になり他者へ会社譲渡することになる。順調に拡大成長したのも束の間。好機魔多し。招集令状が届き出征することになる。
戦後の復興、家具から自動車部品の製造へ創業者の判断力が現在のヒロテックの源泉となった。
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戦後の混乱期に再出発
1946年戦争で焼野原となった広島。観音町に工場を建て工員3人から再出発した。戦前取引のあったマルニ木工からイスの金具から始めた。住宅需要でセメント瓦の型枠の需要があった。材料不足から軍物資の流用を思いつく。発煙筒やドラム缶を入手しローラー切断機を造って材料を確保した。
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鋼鉄製家具再び
戦後の復興需要から家具が飛ぶように売れた。鵜野製作所もロッカー、書類棚、金庫など製作した。しかし年間を通して注文のムラが大きかった。東洋工業(現在のマツダ)なら安定した仕事があるのではと受注を申し込んだが自動車部品は他社に割り振られており受注できなかった。そのかわり部品棚、部品箱を出してもらった。
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初めての自動車部品
1953年待望の自動車部品を受注する。オート三輪のフロントカバーだった。観音の工場を鉄骨構造に立て直し300ton プレスを導入した。鉄骨の建物も 300ton プレスも当時広島市周辺の鉄工所でもっているところは他になかった。
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初めてのドア
1954年初めて作ったマツダ車のドアは三輪トラックのものだった。マツダ車でクルマに装備された初めてのドアでもあった。1950年代労働争議が活発になり1958 年 9 月会社を閉鎖休業することになる。創業者にとって二度目の失敗となる。
自動車ボディ製造のあるべき姿を描き金型・組立設備を自社製作する体制を整え、現在のヒロテックの基盤を形成した。
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広島プレス工業設立
友人たちの援助もあって再起することにした。東洋工業(現マツダ)が軽乗用車の生産を始めた頃。東洋工業に近い府中町茂陰の鋳物工場を買い取り 1958 年 11 月広島プレス工業を設立した。当初従業員は 50 人だった。
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金型製作から量産部品まで自社で手掛けた初めてのクルマ
プレス技術の中心は金型であり、これを社内で製作できなければ今後の発展は望めないとの信念を元に設備・人材の整備を進めた。軽三輪トラックのボックスサイドパネルは当初の部品点数4点を1点に、型数は大小12点を3点に、材料費を1/4と大きなコストダウンにつながった。
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業界に先駆け設備投資
1964年金型設計製作を行うため西ドイツのDROOP&REIN 社の倣いフライスを導入した。親会社から金型の支給を受ければ生産を行える時代だった。しかし金型工場の整備に莫大な設備投資をおこなった。設備の製作から生産まで一貫体制を整えることで品質向上と合理化を向上させた。
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安芸工場建設(温品工場)
府中工場敷地内の拡張は限界にきていたため新工場の候補地を検討、県内を中心に島根、山口まで調査したところ安芸町温品(現在の広島市東区温品)に適地を見つけた。1965年安芸工場を建設、本社も移転させた。
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キャビンの組立開始
ファミリアトラックは府中工場でバックプレートだけ生産していたが新工場の展開によりキャビン全体の生産が可能となり「量と質の拡大」の第一歩となった。
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ヒロテックの礎を築く
1968年広島プレス工業 10 周年を迎え東洋工業協力工場の中堅として、また金型、プレス機械の製作工場としての地位を築いた。車体製造に必要なプレス機械の80% 、金型自動組立溶接機の 100% が自社製品であった。現在のヒロテックの事業基盤はこの時期に形成されたのである。
ドアへの集中、HQDC 、海外プロジェクトなど事業の進化変遷があった。
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開発から生産まで
ポーターキャブではボディー設計から広島プレス工業社員が参画しフロントルーフ一体金型を開発。生産設備の設計製作、プレス加工、組立までの一貫生産を行った。1969〜1989 年まで通算 20 年 729,679 台を生産した。
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ドアへの集中
キャビン生産はリスクが大きかった。当時プレス加工と組立作業に従事していた作業者は 500 人程度。そのうち軽乗用車シャンテの生産には 300 人が従事していた。1972年より開始したシャンテの量産はマツダの判断で4年で終了した1976年以降の軽乗用車撤退を機にドアに集中することに決めマツダに働きかけた。同年、創業者鵜野徳夫は二代目鵜野俊雄に社長を引き継いだ。
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様々な事業
■1972 ステンレス浴槽
■1972 防音板
■1975 トランスケース
■1982 太陽熱温水器
金属加工技術を基に様々な製品をつくり様々な業種に取引を広げたがやがて自動車部品に集約されていった。 -
H.Q.D.C.
1960年代、プレス生産における車種変更は金型交換と調整で1時間かかっており製品品質と生産性に大きく影響していた。1979年から1980年にかけて広島プレス工業はマツダから金型交換のモデル工場に指定されマツダの指導のもと改善に取り組み 3 分台に、その後も改善を継続し 1980 年代には 80 秒台になった。1991年アメリカの「 AUTOMOTIVE INDUSTRIES 」(自動車産業誌)の金型交換コンペティションに参加し1位となった。自動車業界に名が知れ渡りGM 、 Benz 、 Opel 、VW 、 Rover などとの取引につながった。
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初の大型海外工事
1982年 SAAB9000 のドア/フードの金型 47 型とそれぞれの組立ライン一式を受注した。この大型プラントは自社内で稼働しているファミリア・ドアのフル自動組立ラインがショーウインドウとなり受注可能となった。その後、海外から同様の金型/組立ラインの引合いが続くようになる。
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排気系事業
開発から生産まで行う排気系専門メーカーを地場に育てるというマツダの意向から経営が安定しており技術力・人材の豊富なヒロテックに白羽の矢がたった。1985年ユーメックス設立、開発・試作・実験・生産という開発型企業が誕生した。
小さく生んで大きく育てる。アメリカへの進出が後の海外拠点拡大へつながっていく。
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TESCO(ヒロテックアメリカ)
将来展望の中で北米はヒロテックにとって重要な市場であった。1988年 3 月 3 日ミシガン州トロイ市のオフィスビルの一室で3人でスタートした。初めての仕事はBudd のドアラインだった。設計/製作/トライをすべて現地調達した。プレス金型と組立設備のセットシステムでGM と独占契約を結ぶことができた。
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広島プレスからヒロテックへ
広島プレス工業は1989 年設立 30 周年を機に社名変更した。「HIRO 」は広島の「ヒロ」広がりの「ヒロ」。「 TEC 」は「 Technology 」「 Excellent 」「 Contribution to community 」の略で「最高の技術を持って社会へ貢献する」を意味する。ロゴは従来の地域地場企業「広島プレス」を小文字のhに見立てそれに something (技術、創造、新分野)を加え、世界を目指すヒロテックは大文字のHとし大人の企業として再出発する意思を示した。
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AVENTEC(ヒロテックメキシコ)
TESCOとの取引で GM との信頼が厚くなるなか量産でメキシコ進出の打診を受けていた。当時のマツダはFORD 傘下で社長は FORD から派遣された人物だった。 GM はFORD の競合なのでマツダの下請けであるヒロテックがメキシコへ進出することに迷いがあった。そのことをマツダ社長であるヘンリー・ウォレス氏に伝えると「マツダの下請けで GM の仕事をするのは非常に立派だ」と背中を押された。1998年アベンテック設立、 GM の量産工場として生産が始まり量産工場としてヒロテックグループで最も大きな拠点として成長した。
これまで得た海外進出・事業発展のプロセスを応用し世界各地に進出していった。
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8ヶ国 17 拠点
TESCOのアメリカ進出は GM のメキシコ量産事業そしてドイツ BMW の量産事業へつながった。またインドツーリング事業進出の足掛かりとなった。マツダに追従するかたちで中国、タイに量産工場で進出した。2022年時点 8 ヶ国 17 拠点へ展開している。1925年筒賀村を飛び出した創業者鵜野徳夫は現在のヒロテックの姿を見て何を思うだろうか・・・
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第三創世期Fly On New Stage!!
1989年の社名変更について社内報「プレスの響き」に以下のように記されている。
広島プレス工業はマツダのドア専門メーカーとして着実な歩みを続け 1988 年 11 月設立 30 周年を迎えることになった。しかしその間当社を取り巻く内外環境の変化は著しく「第二創世期」を迎え新たな飛躍を期する当社にとっても次の時代に対応していける企業として体質の再構築が必要となっている。
そしてあれから30 年、歴史は繰り返しまたその時がきている。100 年に一度の変革期といわれているではないか。自動車産業では CASE がそれに当たるだろう。
第一創世期、会社設立から進化発展し第二創世期に海外進出拡大成長してきた今、正に第三創世期を迎えている。我々は新たな舞台で飛躍するのだ。